なんて思っていたら検問!?しかもランダムに?
見事、ワタシの車を止められ、もしやスピード違反?ここで?
と思っていたら、高速料金を払っているかどうかのチェックでした。止められた車を見てみたら、全て他国ナンバー。ワタシの前後はステッカーを貼っておらず、どうやら罰金を取られるようです。
正直者は損をしません。(笑)
国境でパスポートを提示して、車で出国&入国のスタンプを押してもらい、今度はポーランドの高速通行ステッカーを買います。
1週間分を買ったのだけど、1日券を2枚買えばよかった。とは言っても28ズウォティ(約1ユーロ)。1ユーロでポーランドの高速乗り放題だなんて何とお得な!
ポーランド側に入れば、いきなりの工事中。そして、また工事中。。。
高速をS1号、1号と乗り継ぎ、Oswiecim(オシフィエンチム:独語でアウシュヴィッツ)に到着したのは16時ちょっと過ぎ。博物館の茶色い標識に従って行くと、レンガの建物が見えてきます。
あたかもポーランドにより虐殺が行われたとの誤解を招くとして、昨年7月、Unescoにより承認され、"Auschwitz concentration camp"(アウシュビッツ強制収容所)から"Former Nazi German Concentration Camp Auschwitz-Birkenau"(アウシュビッツ・ビルケナウ−ナチスドイツ強制・絶滅収容所)へ改称されています。
(Poland wins name change for Auschwitz death camp)
国営の博物館で、Commission Freeとは、入ってから知ったこと。
レンガの建物に入るとアウシュヴィッツでの歴史を記すパネルが並びます。ヒロシマ・アウシュヴィッツマーチの模様や、日本でのアウシュヴィッツ展の模様などがある。
ガイドツアーに参加しようと思っていたら、15時半が最終で、残念ながら参加できず。ですが、個人でまわれます。閉館時間はわかりませんが、19時を過ぎても入ってくる人も居り、関連書籍を売る売店も開いていました。売店には、館内の案内ブックレットあり。
内部展示には、17時までや平日のみのものもあります。有料の15分フィルム上映もありますが、英語版は日に2回(11時、13時)。
アウシュヴィッツは3つのキャンプがあり、この博物館はアウシュヴィッツ1と呼ばれる一番初め収容所。当初はポーランドの政治犯やロシアの捕虜なども収容。
建物を抜けると、高圧電流が流れる金網が張り巡らされているのが直ぐ目に入る。
一番初めに無性に虚しく見えた”Arbeit Macht Frei”(アーバイツ マハト フライ:働けば自由になる)の文字があるゲート。
自由になることなど果たしてあったのだろうか。
毎日、木材を運ぶ”仕事”をしに、収容所を出て、11時間にも及ぶ作業の後、このゲートを再びくぐって入る。その足が進むようにと、マーチが演奏されていたなんて。
電線前には、ドクロが描かれて、”Vorsicht”(注意)や”Halt”(止まれ)の立て札。
レンガ造りの収容建屋のほとんどは、それぞれテーマのある展示がある。
膨大な資料と展示で、全ては見切れなかった。
没収された所持品の山。
名前の書かれたカバン。
靴。木靴もあった。子供の靴も。
衣服。赤ん坊の小さな服。
女性の髪。
これらは、1kg50Pennyで売買され、繊維として利用されたとの記述を見て驚いた。
麻製の袋のような布には、髪の毛と思われるものが見え、電子顕微鏡などの調査の結果、人髪、特に女性の髪であると判定できたのだと。
Zyklon B(Cyclon B)が使用されたガス室。
チクロンBの空き缶。
人体実験の様子。
収容された人々の写真が並ぶ廊下。
そのうち、犠牲となった人の、生き残ったと思われる家族が手向けたと思われる花が所々に。
その家族も、ここに収容されていたのかもしれない。
屋外には、集団絞首刑が執行された柱。
銃殺刑が執行された壁。
英語の説明に”Prisoner”(囚人)の表記があったのだが、一体どれだけの人が、本当に”囚人”だったのか。
ここから、3km程離れたところに、Auschwitz-Birkenau(アウシュヴィッツ-ビルケナウ)がある。
アウシュヴィッツ1よりはるかに広大でアウシュヴィッツ2と呼ばれていた場所。
保存されている木造の建屋は、52頭の馬を繋ぐことが出来るように設計され、実際には400人の人々が収容されていた。
中に入ってみれば、隙間だらけ。
暖炉と思われる2つの煙突があるが、これくらいでポーランドの冬は越えられないだろう。
3段ベットのそれぞれの段は、二人が割り当てられていたのだという。
線路の最後から見た収容所の入り口。
SS医師により、”働けない”と診断された者は、到着後、直ぐにガス室へ送られたと説明するパネルには、”処刑前”の女性達が並ぶ写真。
線路の終わりの先には、記念碑と、その両脇には、ソ連侵攻直前に爆破されたガス室。
その傍らには、犠牲者の灰が埋められた場所。
4つの石碑にはそれぞれ、ポーランド語、英語と他2ヶ国語(ヘブライ語?イディッシュ語?)で書かれている。
”To the memory of the men, women, and children who fell victim to the Nazi genocide. Here lie their ashes. May their souls rest in peace.”
木造の建屋があった場所には、暖炉であったであろう煙突だけが目の前に広がる草地に残る。
レンガで出来た建屋も多く残っている。
フェノール注射で、ヨーゼフ・メンゲレ博士により、新生児と母親が”処刑”された建屋には、赤い一輪の薔薇が手向けてあった。
150万もの人々が犠牲となったと言われているこの場所で、どうして残虐な思想を持ちえたのか、戦時下だから成り立ったのか、人とはどういった生き物なのかと考えた。
そして、犠牲者でも加害者でもある日本に生まれた一国民として、国際社会にどう関わっていくのが良いのか、単に政治的に利用されいるとも捕らえることもあるが、真摯に考えてゆきたいと、虹の出るアウシュヴィッツの空の下で思った。
ポチッとな。Dziekuje!

自家用車で回るのの大きな利点ですね。私は時間も足もなく行けませんでした。
私がアウシュヴィッツに行ったのはもう13年も前になります。なによりも、髪の毛と靴の山に、殺された人たちの姿をイメージさせられて背筋を寒くした記憶があります。そして、見学終わり頃から胃が痛くなってしまい、歩くのも大変なくらいだったのが、モンを一歩出た途端にスッと痛みが退いて、あ、これは彼らの霊が私に伝えたいことがあったんだな、と思いましたよ。
一度は行っておきたいリストに入っていたので、今回行ってみました。リストの数は増えるばかりでなかなか減らないのですが。。。
一人で行かせて頂きました。毎度のコトながら、計画が唐突なので。(笑)
>ぴかままさん
ベルリンからならばまだしも、シュトゥットガルトからは、やはり遠かったですね。途中で車で来たことを後悔しつつ。(笑)
あの遺品の山には驚きました。さらに、あれが全てではないと思うと。あの品々の所持者が、アウシュビッツのあの地で経験させられたことを思うと、なぜか無性にやるせなさを感じました。
休み明けにどこに行ったのかと会社の人(ドイツ人)に聞かれたときは、言うのをためらいました。結局、話の流れ的に言うことになり、さすがに話は続きませんでしたが。